汲々(きうきう)。
(えー、この次の段落は本項の最後尾にて、なにやら総括めいた記述をしてくださってい、とっても興味深くございます、ございました、んが、ようわかりませなんだものですから、えー、ここはひとつ慎重に進めとうございますー。)
こんばんは。
日本人(※つづきっス。) 出典:『ウィキペディア(Wikipedia)』
核DNA解析によって推定される日本列島への人類集団の移住の歴史
仮に東アジアの六集団(本土日本人、アイヌ人、沖縄人、韓国人、北方中国人(注:サンプルは北京の漢族)、南方中国人(注:サンプルは中国系シンガポール人))がすべて三つの集団の混血からなると仮定してゲノムを分析すると、
第一段階の集団の遺伝子はアイヌの一部が100%を受け継いでおり、沖縄人は20%弱、本土日本人もそれより低い確率で受け継いでいるが、その他の三集団ではほとんど見られない。
第二段階の集団の遺伝子は、沖縄人が80%以上、本土日本人が60%以上、韓国人は30%前後、北方中国人が10%前後受け継いでいるが、南方中国人はほとんど持っていない。
第三段階の集団の遺伝子は南方中国人のほぼ100%を占め、北方中国人の90%前後、韓国人の70%前後もこの系統である。本土日本人においては第一段階の集団よりも多いが、第二段階の集団よりは少ない。アイヌにもある程度影響のある個体が存在するが、沖縄人への影響はほんの一部に過ぎない。
ただし、これらの推計は限りなく単純化されたもので、必ずしもそのまま受け取れるものではないことに注意する必要がある。
(えー、んー、すると本土日本人は、第二段階の集団遺伝子が最多ーゆうことになりまするーうへえええーなんてこったーはわわわわー。)
(ぷひぃー。とん、とん。)
悠久(ゆうきゅう)。
(ふーむ、再度整理する必要があるやも、あ、もうええて。)
こんばんは。
日本人(※再掲、抜粋っス。) 出典:『ウィキペディア(Wikipedia)』
核DNA解析によって推定される日本列島への人類集団の移住の歴史
第三段階前期(農耕民)(約3000年前-1700年前)
朝鮮半島から稲作を主とする渡来民が流入し、水田稲作を導入
この集団は主に北九州、畿内、関東を結ぶ日本の中心軸に広がり、その他の場所では比較的影響を及ぼさなかった
特に北海道や南西諸島、東北への影響は引き続きほとんどなかった
(ふんむ、第二段階もたしかそうでしたけど、地域を分けて考える必要があるんですよーゆうことですね、ありがとう存じます。)
第三段階後期(約1700年前-現在)
政治の中心が畿内に移り、朝鮮半島に加え、現在の上海周辺からも若干の渡来民が流入
古墳時代に入ると、東北地方に居住していた第一段階(旧石器・縄文人)の子孫の大半が北海道へ移り、替わって第二段階(漁労民もしくは園耕民)の子孫を中心とする人々が住み着いた
南西諸島では、グスク時代に南九州から第二段階の子孫を中心する集団が移住・混血し、江戸時代には第三段階の集団との混血も進んだ
北海道では古墳時代から平安時代にかけてオホーツク文化人と縄文人の子孫との交流があり、江戸時代以降は本土日本人との混血も進んだ
(えー、なんしか地域別に分けて考える、だけでのーて、地域別に整理する必要もあるやも、あああーどないしませうー。)
(ぷひぃー。とん、とん。)
依然解消せぬ俺の疑問。
(あー、幾度も似たようなことを繰り返し申し上げて済みませぬ、ですが、なーんか俺んなかで、うまくお伝えできていないような、俺の表現がへたくそなために、あなたにするんするりーんとご理解いただけておりませぬような、ですからさーせん、またも申し上げますれば、「縄文人」といいますとほぼ自動的に「狩猟採集民」、とすれば絶えず移動を繰り返す暮らし、ところが、彼らご先祖さまらは定住か、もしくは定住に近い暮らしをしていたんじゃあるーめ(訂正:「あるめーか」としてくだされ。さーせん。)とする俺の長年の疑問、そんなこんなのところで、おお、この「第二段階」ゆうんが、まったく新しく登場せんとス、えええーそうかそうなんですかー。)
こんばんは。
(えーと、ですが、慌てて付け加えますると、この第二段階にやってきた第二の渡来人のご先祖さまらは「縄文人とDNAを大きく異にしていた」、ですんで「縄文人」とは別です、ですから従来通り、「(訂正:←括弧を取ってくだせえ。)縄文人が「狩猟採集民」でありますことにゃーなんら変わりなどありませぬで、そんな縄文人らと別に新たにやってきた集団があったんですねーと、彼らは定住する「漁撈・園耕民」なのですねと、そんな彼らが「弥生人」の前にいるのでしたよーと、ええ、そんなんでよろしうおねがいいたしますー。)
(次に「園耕」っちゃーなんですかなーとするお話ですが、どうやら欧州発の言葉のようでして、まず場所は「園地(garden)」、集落近くを柵で囲った農地を指しまして、「園地」より外側の「耕地(field)」と対比する言葉です。そして「園耕」は、そうした広い場所を、ちゃんと計画的に管理し、組織的に行う農耕(cultivation)の方式のことなのです。この国の農地は狭く、こうして分ける必要も意識もあんまりありませなんだーと。いんやー勉強になりましたですー。)
(ぷひぃー。とん、とん。)
戻る。Back.
ずんびずびずばー。
(この「第二段階」ゆうんが、俺にとりまして新しい情報、新たな知識、ずばり、ずぼりなお話しでありますことに気付くのでありまーす。)
こんばんは。
日本人(※しつこく再掲っス。) 出典:『ウィキペディア(Wikipedia)』
核DNA解析によって推定される日本列島への人類集団の移住の歴史
第二段階(漁撈・園耕民)(約4400年前-3000年前)
縄文時代後期になって、第二の渡来民が流入
縄文人とDNAを大きく異にしていた
が、後述の第三期渡来民とも若干異なっていた
黄海沿岸に住む「海の民」と推定し、漁労を主とする狩猟採集民もしくは狩猟採集と農耕をともに生業とする園耕民であった
この集団は日本列島中心部において縄文人と混血したが、北海道、南西諸島、東北地方にはほとんど影響を及ぼさなかった
また、ABO式血液型の分布から、この集団はO型を主とし、シベリアもしくは東南アジアの集団と近縁である可能性
(「漁撈・園耕民」ゆうんが、新鮮、とってもとっても新しいのです。もっと言いますと「園耕民」。なんじゃいなー、なんですかこれはー、と。えーと、調べる前に申し上げますと、俺りゃーしばらくの間、ながーい間、「縄文人」と申しますと「狩猟採集民」ですが、なるほど農耕こそしてませんでしたでせうが、ですがそれでも定住してましたよねーと思ってまして、ずっと思ってまして、ほら、端的に「狩猟採集民」、とくに「狩猟民」と言いますと、弓矢や槍(やり)を手に、鹿や猪やマンモスを追っかけ、びゅんびゅん飛ばしてとっちゃう、そんなイメージがありまして、ほら、あのまんまるお肉の、ですから常に獲物を求めて移動中、定住だなんてとんでもござーせん、そんな強いつよーひイメージに引っ張られる、ときに持ってかれてまう、するってーと「狩猟採集民」であるところの「縄文人」と言いますと、ところがどっこい貝をたくさんたくさんとったり、どんぐりをためにためて保存したり、そんなこんなの工夫を、そしてですから定住か、もしくはそれに近い形で生活してたんじゃーあるめーかと、ええ、なんせほら、広い広い草原とか馬とか、ね、そんなんありませぬですからー。)
(ぷひぃー。とん、とん。)
ながすぎっとあれだもんにょー。
(さてもさても、昨日引用分が、引用文が、すんばらしいので、あまりにもすばらしすぎますのんで、ちょっくらちょっこらちょっこらー。))
こんばんは。
日本人(※抜粋、再掲っス。) 出典:『ウィキペディア(Wikipedia)』
核DNA解析によって推定される日本列島への人類集団の移住の歴史
第一段階(狩猟採集民)(約4万年前から約4400年前、旧石器時代から縄文時代の中期)
第一波の渡来民が、ユーラシアの各地からさまざまなルートで流入
1万2000年前まで大陸と陸続きであったため流入は容易であった
この集団は狩猟採集を主とし、現在の大半の東アジア人とは大きくDNAの異なる集団だった
この旧石器時代の日本人がそのまま縄文人へと発展
(どうですか。1万2千年前なのですね。そうして4400年前まで続くのですね。そうして彼らは、このご先祖さまらは、「狩猟採集」なのですね。)
第二段階(漁撈・園耕民)(約4400年前-3000年前)
縄文時代後期になって、第二の渡来民が流入
縄文人とDNAを大きく異にしていた
が、後述の第三期渡来民とも若干異なっていた
黄海沿岸に住む「海の民」と推定し、漁労を主とする狩猟採集民もしくは狩猟採集と農耕をともに生業とする園耕民であった
この集団は日本列島中心部において縄文人と混血したが、北海道、南西諸島、東北地方にはほとんど影響を及ぼさなかった
また、ABO式血液型の分布から、この集団はO型を主とし、シベリアもしくは東南アジアの集団と近縁である可能性
(これです。本日はこれをこそ申し上げにゃーと思ったんス。んが、んだども、あああーきりーつ、れいー、したー。)
(ぷひぃー。とん、とん。)
おっつかっつっスー。
(ううーむ、「縄文人はこの南にもいた旧石器人とロシア沿海州あたりの北東アジア人にいた人が日本列島で出会って生まれたもの」だなんて、なーんてロマンチックな、ラブ・ロマンスな、うふふ、うっふ、うふふふふうー。(※両手を胸の前でぴっちり組んでいる、かどうか。))
こんばんは。
日本人 出典:『ウィキペディア(Wikipedia)』
核DNA解析によって推定される日本列島への人類集団の移住の歴史
第一段階(狩猟採集民)(約4万年前から約4400年前、旧石器時代から縄文時代の中期)
第一波の渡来民が、ユーラシアの各地からさまざまなルートで日本に流入した。特に1万2000年前まで日本は大陸と陸続きであったため流入は容易であった。この集団は狩猟採集を主とし、現在の大半の東アジア人とは大きくDNAの異なる集団だった。この旧石器時代の日本人がそのまま縄文人へと発展したと考えられる。
第二段階(漁撈・園耕民)(約4400年前-3000年前)
縄文時代後期になって、第二の渡来民が流入した。これは縄文人とDNAを大きく異にしていたが、後述の第三期渡来民とも若干異なっていた。斎藤はこの集団を黄海沿岸に住む「海の民」と推定し、漁労を主とする狩猟採集民もしくは狩猟採集と農耕をともに生業とする園耕民であったとした。この集団は日本列島中心部において縄文人と混血したが、北海道、南西諸島、東北地方にはほとんど影響を及ぼさなかった。また、ABO式血液型の分布から、この集団はO型を主とし、シベリアもしくは東南アジアの集団と近縁である可能性がある。
第三段階前期(農耕民)(約3000年前-1700年前)
朝鮮半島から稲作を主とする渡来民が流入し、水田稲作を導入した。この集団は主に北九州、畿内、関東を結ぶ日本の中心軸に広がり、その他の場所では比較的影響を及ぼさなかった。特に北海道や南西諸島、東北への影響は引き続きほとんどなかった。
第三段階後期(約1700年前-現在)
政治の中心が畿内に移り、朝鮮半島に加え、現在の上海周辺からも若干の渡来民が流入するようになった。古墳時代に入ると、東北地方に居住していた第一段階(旧石器・縄文人)の子孫の大半が北海道へ移り、替わって第二段階(漁労民もしくは園耕民)の子孫を中心とする人々が住み着いた。南西諸島では、グスク時代に南九州から第二段階の子孫を中心する集団が移住・混血し、江戸時代には第三段階の集団との混血も進んだ。北海道では古墳時代から平安時代にかけてオホーツク文化人と縄文人の子孫との交流があり、江戸時代以降は本土日本人との混血も進んだ。
(ぷひぃー。とん、とん。)
季節のはやさにおっつきませぬー。
(さーせん、まーんず、お読みんなっておくんなすってー。)
こんばんは。
日本人 出典:『ウィキペディア(Wikipedia)』
民族としての形成
縄文人と弥生人と古墳人
三系統説(※つづきっス。)
一方、国立科学博物館の篠田謙一館長らはDNA解析の専門家である沖縄科学技術大学院大学のスヴァンテ・ペーボ教授と、港川人よりも古いとみられる石垣島白保竿根田原洞穴遺跡から発見された2万7千年前の旧石器時代の人骨についての共同研究を行った。
それによれば、縄文人はこの南にもいた旧石器人とロシア沿海州あたりの北東アジア人にいた人が日本列島で出会って生まれたもので、その後、弥生時代に入って東アジア人が渡来、彼らとの混血も進んでいったものの遺伝的には多様で、また、古墳時代に入っても東アジア人の渡来が続いたのではないか、これらの混血は長い期間をかけて進み、例えば鎌倉時代には離島にはまだ縄文的特質を残す者が住んでいたのではないかといった説を提唱している。
篠田謙一によれば、島根県から出土したもののみが対象の調査であったが、古墳時代の人骨のDNAは現代日本人に近かったものの、縄文人のほうにより寄っていたとする。
なお、古墳時代の人の頭蓋骨のみ下顎底部の両脇が外側に張っている等、他時代の人骨と異なる顕著な特徴があったが、この原因については今のところ不明としている。
(ぷひぃー。とん、とん。)
戻る。Back.
♪とおーっと とっと とっと(※スタッカート。)
(えー、そんなこって、改めて「古墳人」てどんなひと、どんなご先祖さまたちなんスかねと、Wikipediaのページを再訪しますと、
弥生時代以後に朝鮮半島とユーラシア大陸東部から渡来
古墳文化を担った
と、主な特徴っちゃーとりあずこれっぽっちになりまするが、うーん、まだ説として柔らかいのでせうかー、続報を楽しみに待ちませうー、ゆうときますとあらゆる意味で非難や批判などありませぬーよろしうー。)
こんばんは。
日本人(※つづきっス。) 出典:『ウィキペディア(Wikipedia)』
民族としての形成
縄文人と弥生人と古墳人
三系統説
理研生命医科学研究センターゲノム解析応用研究チームの寺尾知可史チームリーダー、劉暁渓上級研究員や東京大学医科学研究所附属ヒトゲノム解析センターの松田浩一特任教授らは、各地の医療機関に登録された日本人3256人分のDNAの全配列を分析、結果、日本人の祖先は主に、沖縄県に多い「縄文系」、関西に多い「関西系」、そして東北に多い「東北系」の3つに分けられるとした。
縄文人のゲノムは本土日本人、琉球列島集団、現代のアイヌのゲノムのそれぞれ約1〜2割、3割、7割を構成しているとされた。当初、これはそのまま金沢大の「三重構造モデル」をそのまま裏付けるようにもみえた。
(ぷひぃー。とん、とん。)
♪とっとととー とっとととー
(ちょい待ち。ちぃーと、あ、いいからいいから、ちぃーとばかり、ちょっこし、ちょっくら、お待ちなってくだされよー。)
こんばんは。
(と言いますのんは、こんな展開を、似た流れを、前にもあったかしらんと、ええ、たっしかありましたよなーと記憶するのですが、この「古墳人」がですね、どうもこの俺にとっちゃー新しい「古墳人」とやらがスね、
「本州の「現代日本人」におけるゲノムにおいては約7割近くを占める。」
っちゃーどーゆーこったよと。どうゆうことなんスかと。ええ、だってなんせ俺はこう考えていたんスから、まんず「縄文人」を掘り下げ、なんだーかんだー、あーたらこーたらと申し上げつつ扱って参りました、それも「縄文人」の比率が、まあまあ少ないのだろう、だて)(訂正:「て」→「と」)してもそれなりの大きさかいなーと思っていたからっスよ、そうしておそらく「縄文人」よりかは比率が高いのかなあと俺勝手に思います「弥生人」を次に取り上げてみっぺよーと、すると、するとですよ、「古墳人」なる対象があらたに、しかも、しかもですよ、「約7割近く」っちゃーどーゆーことっスか、「縄文人」「弥生人」よりも「古墳人」のほうがはるかに重要ってことになっちまいますよ、これって、ですよね、ほら、これってあれですよ、後から来たもんがぶっちぎりますよーゆう、超絶ぶっこぬいちまいやすよーゆう、ああああーあああああああー。)
(ぷひぃー。とん、とん。)
♪とととととー とりあえずー
こんばんは。
古墳人 出典:『ウィキペディア(Wikipedia)』
古墳人(こふんじん)とは古墳時代に日本列島に居住していた人々の総称。縄文人・弥生人に並ぶ、日本人の祖先集団であるという説が提唱されている。
金沢大学らの研究グループの提唱した説によると、以下の通りである。
弥生時代以後に朝鮮半島とユーラシア大陸東部から渡来、古墳文化を担った。
在来の縄文人や弥生人と混血し、現日本人を形成していった。
本州の「現代日本人」におけるゲノムにおいては約7割近くを占める。
概略
長らく日本人の起源を縄文人と弥生人の「二重構造」でみる説があったが、金沢大学、鳥取大学、アイルランド・ダブリン大学などの教授、研究員からなる国際共同研究グループが考古遺跡から発掘された人骨からDNAを抽出し、最新のゲノム分析を行った結果、「縄文人」「弥生人」「古墳人」は異なるゲノムであり「三重構造」であると提唱した。
(ぷひぃー。とん、とん。)
感動に身を震わせる(盛)。
(「三重」の「三」の意味が、ようようわかりもうした。「縄文人」「弥生人」につづき、「古墳人」なるご先祖さまがたがまたやってきましたと言ふのですね。どうですか、「古墳人」。俺はこれまで存じませなんだ。そうして俺は、こうしてはじめて知り得たよろこびに、ふるふるふると打ち震える、懸命に立ち上がろうとする、かわひひかわひひうまれたての小鹿(略)。)
こんばんは。
日本人 出典:『ウィキペディア(Wikipedia)』
民族としての形成
縄文人と弥生人と古墳人
三重構造モデル(※つづきっスー。)
今後の研究次第では更に「三重構造以上」になる可能性もある。
1970年に沖縄県で日本では少ない旧石器時代の人骨人が複数発見され、出土した場所の地名から港川人と名付けられたが、その一つのミトコンドリアDNAを調べたところ、分析した現代日本人約2千人の中に同じ遺伝子の特徴を受け継ぐ直系の子孫はいなかったものの、現代日本人・弥生人・縄文人に多く見られるタイプの祖先型の遺伝子を持つことが分かったという。これは港川人の集団が日本人の遠い祖先にあたる可能性を示唆している。
東南アジアのマニ族からは、縄文系日本人と近縁である遺伝子が検出された。
(ぷひぃー。とん、とん。)
戻る。Back.
あ。ふ。(※略。あ。)
こんばんは。
日本人 出典:『ウィキペディア(Wikipedia)』
民族としての形成
縄文人と弥生人と古墳人
三重構造モデル(※つづきっスー。)
金沢大、鳥取大、アイルランド・ダブリン大などの教授、研究員らで構成される国際共同研究グループの最新のゲノム解析では、旧石器時代に大陸から渡ってきた千人ほどの小さな集団が日本列島に適応して縄文人となり、弥生時代までに北東アジアを起源とする弥生人が渡来し、続いて古墳時代までに東アジアを起源とする古墳人が渡来し、以後、混血融和しながら現在の日本人を形成していったとする「三重構造モデル」である。
考古遺跡から発見されている人骨から採取された『縄文人』『弥生人』『古墳人』のDNAは『現代日本人』に直接受け継がれている。
現代日本人では古墳人のゲノムが7割近くを占める。
(お、おもしろすぎまするー、あなたさまにおかれましてもー、どうかどうかなにとぞじっくりしっとりしっかりと味わっていただきとう存じまするー。)
(ぷひぃー。とん、とん。)
はまっていくかんじが、か、い、か(略)
縄文人 出典:『ウィキペディア(Wikipedia)』
縄文人のルーツ
父系のルーツ(※つづきっス。)
また、Y染色体ではなくゲノムワイドの解析にもとづき「三重構造モデル」を提議する説もある。さらに最近はこれにも修正が加えられつつある。(参照:日本人#縄文人と弥生人と古墳人)
こんばんは。
(う、うへっへっへー。)
日本人 出典:『ウィキペディア(Wikipedia)』
民族としての形成
縄文人と弥生人と古墳人
縄文時代から始まる縄文文化を持ち狩猟採集生活をしていた先住民の縄文人に続き、半島からの渡来してきた弥生文化を持つ弥生人が稲作をもたらすなどしながら混血していったという東京大学名誉教授埴原和郎が唱えた「二重構造モデル」(1991年)の登場以降、混血説が有力視されるようになった。
2020年代に入り、最新のゲノム分析からさらに三重あるいはそれ以上ではないかという説が出ている。
(な、なんか、あっちもこっちも、ずんずんメタってまするー。)
(ぷひぃー。とん、とん。)
びみょーにあつひ。
(えー、昨日のお話をそのままにするってわけにゃー、するりとすっ飛ばしなんかしたら、あなたさまに怒られっちまわあ、ですよねーそっスよねー。)
こんばんは。
(わかりました。でしたら気づきましたことどもをおっとり順々に、まーんずこの「Y染色体ハプロほにゃら」や「ミトコンドリア・イブほにゃらら」が、俺にとってなじみの薄い、耳馴染みのないお言葉だったんは、こうした研究が1990年代から盛んになったんスよーということだったのですね。ふむふむー。)
(次に、えー、固有のグループ名称を脇によっこらさせてもらいますと、やはり「日本人」のご先祖さまに最頻度なんが「縄文系」と「弥生系」となりますこと、このうちの縄文系のグループは「現代の日本の民族集団(大和民族、琉球民族とアイヌ民族)に見られ」ること、ちうことは、言い換えると、現代の日本の民族集団は、大和民族、琉球民族、アイヌ民族の大きく三つになるんスよーということ、地域で見ると「本土と奄美群島・琉球列島及び千島列島の3地域」、ふうーぬ、そーなんスかーありがとうございますーずんびずびずばー(不明)。)(訂正:鍵括弧記号を追加)
(て、これで本日分を〆ようと読み返して気付きました、俺が間違えてます、この三地域の三民族集団ゆうんは「縄文系」のお話でしたね、限ってました、ですから「弥生系」はまた別になりますですと、さーせん、しやーす。)
(ぷひぃー。とん、とん。)
気のもちようと理解度はあくまで別。
(は。何を張り切ってえばってんだと、さーせん。)
こんばんは。
縄文人 出典:『ウィキペディア(Wikipedia)』
縄文人のルーツ
父系のルーツ
父系のルーツを辿ることができるY染色体ハプログループは、数万年にわたる長期的な追跡に適しており、1990年代後半から研究が急速に進展した。
(ほ、ほうほう、そうなんスか、そういうことだったんスか、そーゆーことだったんスねーありがとうございますー、あの、こういう、なんかこういう、さりげなくまとめて教えてくれるゆうん、ありがたきこってスーははあー。)
日本人はY染色体ハプログループD1a2aの縄文系とハプログループO1b2の弥生系が最多の頻度を示し、埴原和郎らが唱えた「二重構造モデル」とも一致する結果となった。
Y染色体ハプログループD1a2aは現代の日本の民族集団(大和民族、琉球民族とアイヌ民族)に見られ、日本列島の本土と奄美群島・琉球列島及び千島列島の3地域に多く見られるタイプである。
(あ、あの、この英文字と数を用いた分類法が、うううーこわひー。)
(ぷひぃー。とん、とん。)
戻る。Back.
こっちがちょとだけ気楽。
こんばんは。
縄文人 出典:『ウィキペディア(Wikipedia)』
縄文人のルーツ
分子人類学から見た縄文人のルーツ(※続きっス。)
近年のゲノム分析によれば、タイの南部奥地に暮らす少数民族マニ族の祖先と縄文人とはゲノムの多くの部分を共有する。
タイやラオス周辺には、過去に「ホアビニアン」と呼ばれる狩猟・採集文化が存在し、現在のマニ族などにそのDNAが継承されている。
現在はその後に北からの農耕民族の流入後、孤立し少数民族となっている。
彼らの祖先は東南アジア・雲南に最初に到達した現生人類から分岐し、一部が東アジア沿岸部を北上し、日本列島・沿海州へ到達したとの説がある。
(そ、そうなんスか、マニ族のみなさんが、ですかー。)
(ぷひぃー。とん、とん。)
びびんでぼびぼび。
縄文人 出典:『ウィキペディア(Wikipedia)』
縄文人のルーツ(※再掲、続きっス。)
分子人類学から見た縄文人のルーツ
縄文人のDNAの特徴は、現代の東アジア人の大多数(モンゴル人、中国人、ベトナム人など)のDNAの特徴が一直線上に並び近縁関係を示すのに対して、それからはかけ離れて位置し明瞭な差が認められる点がある。
(も、もう、もぉーうぉーうぅー。(←身悶えの様子、おわかりっスね。))
こんばんは。
そのような現代の東アジア人の大多数は、元来近縁度が高い古代北部東アジア人と古代南部東アジア人(および両者の混血)の子孫であり、したがって彼らの共通祖先よりも、縄文人は以前に分岐したことを示唆する。
なお、現代日本人は両者の中間に位置し、縄文人のDNAを受け継いでいることが示唆される。近年の分子人類学の研究では、東アジア沿岸部で出土した少数民族の人骨と縄文人とに共通性が見出されている。
(ああ、もう、情報が、その量が、ぱむっ、ぱむ。)
(ぷひぃー。とん、とん。)
びびんでんぼぼぼ。
縄文人 出典:『ウィキペディア(Wikipedia)』
縄文人のルーツ(※再掲、続きっス。)
形質人類学から見た縄文人のルーツ
瀬口(2014)によると、先史時代の縄文人は、日本へのさまざまな移動ルートを使用して、多様な旧石器時代の人口から派生した。
この点で、縄文の生物学的アイデンティティは異質であり、縄文として知られている共通の文化に属している可能性のある多様な人々を示している可能性がありえる。—Seguchi 2014
(うっわ、なんか、なーんか、なにやら、どっきどっきするっスー。)
こんばんは。
2017年の近藤修による頭骨測定の研究では、縄文人はかなり異質であることがわかった。
「南縄文人」と「北縄文人」は大きく異なっていた。九州、四国、本州の「縄文人南部」は、現代の東アジア人(「モンゴロイド」)とほとんど同じだったが、「縄文人北部」は異なる表現型を持っていた。
縄文人の大多数は古代東アジア人の子孫だが、北海道の縄文人は異なる遺伝的祖先を持っているようである。北海道縄文人と本州縄文人の間には遺伝子流動の証拠がある。
(ぷひぃー。とん、とん。)
びびんでぼんぼぼ。
(そうなんです、「猿人・原人・旧人・新人という4区分」が、俺んなかで今ひとつはっきりとせず、うすぼんやりのもんやもんやとしていたのでした。そうしてまた、アウストラロピテクス以下の記述も、なるほどそうしたでっけー括(くく)り方をしますのんかと、ええ、ありがとうございますですー。あ、あと、プラトンの「人間階」ゆうんも気になりまするが、まあまあまあー。)
こんばんは。
縄文人 出典:『ウィキペディア(Wikipedia)』
縄文人のルーツ(※再掲、続きっス。)
形質人類学から見た縄文人のルーツ
かつてアイヌはコーカソイドではないかと考えられていたことがあるように、縄文人も形質的にコーカソイドに類似するとの研究 もあるものの、形質人類学の分野では、化石人骨が比較的多く見つかっている北東アジアと日本列島の旧石器時代人との類似を指摘する研究が多い。
これまでに出土した化石人骨と縄文人の関係を見ると、縄文人に最も近いとされているのは沖縄島出土の港川人(およそ1万8,000年前)であるが、形質面から見ると縄文人は港川人の次の段階とまでは言えず、両者の間には更に1つか2つのミッシングリンクがあると考えられている。
また、港川人の頭骨はワジャク人に近く、柳江人や山頂洞人(中国)にはそれほど似ていない為、少なくとも琉球弧の縄文人の祖先は環太平洋方面から来たのではないかとの見方がある。
一方で、旧石器時代のシベリア南部の集団に由来するとする研究もある。
(ぷひぃー。とん、とん。)
戻る。Back.
びびんでばびばび。
(あー。)
こんばんは。
自然人類学 出典:『ウィキペディア(Wikipedia)』
自然人類学は、文化人類学、考古学、言語人類学、応用人類学などと並んで主要な人類学の分野である。
生物としてのヒトの研究を目的とする自然人類学は、化石人類の研究による人類の進化の部分で考古学と密接に関連する。
調査団が発掘を行うと、初期の人類の化石とともに、原始的な石器や食用と思われる動物の骨などが発見されることがある。
(あー。)
歴史
最も広く行われている区分は、アウストラロピテクス(Australopithecus)、ホモ・エレクトス(Homo erectus)、ホモ・サピエンス(Homo sapiens)の3区分である。
アウストラロピテクスとホモ・エレクトスの間に、ホモ・ハビリス(Homo habilis)をどのように位置づけるかで異なる考え方がある。
またこれとは別に、猿人・原人・旧人・新人という4区分も存在する。
猿人はアウストラロピテクス、原人はホモ・エレクトスに相当し、旧人はネアンデルタール人、新人にホモ・サピエンスをあて、ネアンデルタール人はホモ・サピエンスとは異なるものとされていたが、近年では、ネアンデルタール人はホモ・サピエンスに含まれるものと考えられている。
プラトンは人間を自然階に分類し、プラトンの弟子のアリストテレスは「『動物の世界』の中で、直立歩行をするのは人間だけである」と記述している。
ドイツの学者ヨハン・ブルーメンバッハは、大規模な遺骨収集を行い、人類を5つの人種に分類した。
(ね。ちょとおもしろひですよね。さーせん。)
(ぷひぃー。とん、とん。)
びびでばびでぶう。(※音感勝負上等。)
(あ、そうですそうです、これもあった、ありましただー。)
こんばんは。
コーカソイド 出典:『ウィキペディア(Wikipedia)』
コーカソイド(Caucasoid, Caucasian)とは、身体的特徴に基づく歴史的人種分類概念の一つである。現代でも便宜的に用いられることはあるが、科学的に有効な概念とは見なされていない。
ヨーロッパ、北アフリカ、西アジア(北部)、中央アジア、インド(北部)の在来の住民が、この人種カテゴリーに分類された。元来は、コーカソイドとは、カスピ海と黒海に挟まれたところに位置する「コーカサス」(カフカース地方)に「…のような」を意味する接尾語の「 -oid」 をつけた造語で、「コーカサス出自の人種」という意味である。
(は、はわわ、こりゃーちょと、ちょと、う、うう、あの、いつものように面白そうな記述を抜粋させてもらおうと思ったんスけど、あとこれだけを抜き出させてもらいやすーそして「縄文人」に戻りとう存じますーさーせんー。)
分布の歴史
アフリカ大陸で誕生した現生人類は、アラビア半島経由でユーラシア大陸に進出し、大陸全域に居住地域を拡大する。このうちコーカソイドはユーラシア大陸のイラン付近から中東、ヨーロッパに移動していた人々の末裔である。クロマニョン人はコーカソイドの直接の祖先と考えられる。
15世紀以降は特にヨーロッパ系コーカソイドが征服地への入植により大きく居住地域を拡大し、世界的に拡散した。
(ぷひぃー。とん、とん。)
ねっちょんねっちょん(←求意頼。)
(っしゃー、次に参りとう存じますー。)
こんばんは。
縄文人 出典:『ウィキペディア(Wikipedia)』
形質人類学から見た縄文人のルーツ
かつてアイヌはコーカソイドではないかと考えられていたことがあるように、縄文人も形質的にコーカソイドに類似するとの研究 もあるものの、形質人類学の分野では、化石人骨が比較的多く見つかっている北東アジアと日本列島の旧石器時代人との類似を指摘する研究が多い。
(はあ、はあはあ、ほうほう、そうなんスかー、の前に、その前に、あの、まーんず「形質人類学」っちゃーなんスかなー。)
自然人類学(※抜粋っス) 出典:『ウィキペディア(Wikipedia)』
(形質人類学から転送)
自然人類学(英語: biological anthropology)は、形質人類学(physical anthropology)、生物人類学(bioanthropology)とも呼ばれる人類学の一分野である。人類やチンパンジーやゴリラなどヒト科の共通祖先から、どのように現生人類が進化してきたのかを解明する学問である。主に発掘された霊長類や人類の化石を対象に、その形態を分析する。骨や歯の形態からその古人類の運動様式・食性・生殖・生活環境・社会構造などを明らかにする。
自然人類学は、文化人類学、考古学、言語人類学、応用人類学などと並んで主要な人類学の分野である。生物としてのヒトの研究を目的とする自然人類学は、化石人類の研究による人類の進化の部分で考古学と密接に関連する。
(ぷひぃー。とん、とん。)
こっちょんこっちょん(←特深意無。)
(思えばですよ、縄文人のゲノム情報から顔を「復元できる」ゆうことは、これすなわち、現代人であるあなたや俺の顔をも、ほぼ新たに作る、創造する、デザインする、ゆうことと変わりませぬ。「変わらぬ」とまでは言い過ぎとしても極めて近い、もしかしますと美容目的で、新たにならぬ中途でつくりかえる、ゆうことさえもできてしまえるかも知れぬ、ゆうことじゃーありませぬかー。)
こんばんは。
縄文人 出典:『ウィキペディア(Wikipedia)』
形質的特徴(再掲、続きっス。)
2018年に北海道の礼文島から出土した3800年前の縄文人女性のゲノム情報をもとに顔を復元したところ、その女性の肌の色は現代の日本人よりもやや黒く、髪は細く繊細で、目の色は明るい茶色だった。
2015年に科学雑誌ネイチャー に掲載されたジナムらによるゲノムワイド一塩基多型(SNP)データ比較を用いた研究では、北海道の縄文人サンプルは、ヨーロッパ人(そしておそらく他の集団においても)の顔の特徴に影響を与えることが以前の研究で知られている2つの遺伝子を含むいくつかの遺伝子座で本土の日本人とは異なることが判明した。
近藤ら(2017)は、日本の縄文時代集団の地域的な形態学的・頭蓋計測学的特徴を分析し、それらが形態学的に異質であり、東北から南西に沿って連続的に差異を示すことを明らかにした。
彼らは、「縄文時代の頭骨は、特に脳頭蓋において、日本列島を横断する北東から南西への地理的な連続変異を識別可能なレベルで示し、北海道と沖縄のサンプルはその両極端に位置する、とし、以下のシナリオは、注意深く仮定することができると結論づけた:
(a)縄文人の集団形成は、西日本(沖縄や九州地方)ではなく、東日本または中部日本で進行したようである。
(b)九州の縄文人は、小規模で孤立した集団の歴史を持っている可能性がある。
(c)北海道の縄文人の集団の歴史は、深く根を下ろし、かつ/または長期的な外来遺伝子の流れの影響を受けた可能性がある。
(うっわ、なんか、「最先端」のにほひー。)
(ぷひぃー。とん、とん。)
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びっちょんびっちょん(盛)
(ほんだば、ちゃっくら進めとう存じますですー。)
こんばんは。
縄文人 出典:『ウィキペディア(Wikipedia)』
形質的特徴(再掲、続きっス。)
彫りが深くて二重まぶた、眉や髭が濃い、沖縄県民やアイヌのような「濃い顔」が特徴。耳垢が湿っている。下顎が頑丈。がっしりしていて、平均身長は男性で160cm弱。
こうした特徴を持つ人々が日本列島に出現した時期は、最終氷期の最寒冷期(紀元前160世紀すなわち1万8,000年前に氷河が堆積して海水面が最も低くなり、オホーツク海から北海道に歩いて渡れるようになった時期)が終わった後と見られる。ただし、既に日本列島に居住していた後期旧石器時代人の形質が変化したものなのか、列島外から移住してきた人々の影響があるのかは不明である。
(ほうほう、いくつか気づく点、ないし改めるべき点が、ええ、俺がこれまで申して参りましたことで、ですが聡明なあなたさまにおかれましては、すでにお気づきのことかと存じますれば、ちゃくちゃく次に参りますればー。)
3,800年前の縄文人女性の全ゲノム解析によると、縄文人サンプルは、太陽の下で長時間過ごすと肝斑を発症するリスクが高く、同じく2018年に北海道の礼文島から出土した3800年前の縄文人女性のゲノム情報をもとに顔を復元したところ、その女性の肌の色は現代の日本人よりもやや黒く、髪は細く繊細で、目の色は明るい茶色だった。
(いまどきはゲノム情報から顔を復元できてしまえるのですと、程度はあれとしても存じていましたが、改めて考えてみますと、たいしたたまげたですー。)
(ぷひぃー。とん、とん。)
耳垢に資格、あり。 な。
(うーんにゃ、なーんでもござーせんー。)
こんばんは。
(て、それはそうと、ええ、ええ、これも気づきましたんで、しかも今ここで書いておかねーと、後で書こうとしても機会を逸(いっ)しかねぬませぬーと思いましたんで、いま書きせてもらいまするが、なんらの批判などじゃござーせんと予め申し上げておきつつ、えーと、「北海道と沖縄」に関しまして、俺んなかでちと混乱をしてまして、ええ、あえて距離的にかなり離れたこれらをまとめさせてもらってますが、なんとなりますれば、なんでも「本州と九州」の縄文人と「北海道と沖縄」の縄文人は、遺伝的に系統が違うんスよーと、ええ、なんしか二項対立っぽく書かれていまして、んが、昨日取り上げました形質的特徴は、あくまで多数派なのであろう「本州と九州」の縄文人を描いているのかと存じますが、その記述に「沖縄県民やアイヌのような「濃い顔」が特徴」とありまして、あれあれあれれ、ちと混乱しますよね、っスよねー。)
(い、いやーんーんーんー。 ぬ。)
(ぷひぃー。とん、とん。)
(えー、「北海道や東北の縄文人は、本州や九州の縄文人とは明らかに異なっており」「本州と九州の縄文人は、現代の東アジア人に似ていた」とあります。そうなんスかーと、するってーとその違いはどこにありますのんか、外見上はどこに求めることができますのんか、その程度っちゃーはっきりとわかるほどの違いだったのでせうかとか、ううーん、コイバナ、とか、ロミオとジュリエット的な恋バナだとか、う、うおおおー。(←なにやら盛り上がっている。))
こんばんは。
縄文人 出典:『ウィキペディア(Wikipedia)』
概略(続きっス。)
この縄文人は時期によって異なるが地域ごとに4から9のいくつかの諸集団に別れていたと考えられている。
形質的特徴
彫りが深くて二重まぶた、眉や髭が濃い、沖縄県民やアイヌのような「濃い顔」が特徴。耳垢が湿っている。下顎が頑丈。がっしりしていて、平均身長は男性で160cm弱。
(い、いやーんーんーんー。 は。)
(ぷひぃー。とん、とん。)
「彫りの深い顔立ち」。ああ。(←憧れ。)
縄文人 出典: 『ウィキペディア(Wikipedia)』
縄文人の人骨は幾つか出土しており研究が進んでいる。平均身長は男性が160cm弱、女性は150cm弱でがっしりとしており、彫りの深い顔立ちが特徴とされる。
(えー、平均身長が、今のあなたや俺に比べて少し低いとはいえ、まあまあそうはいってもそれほどの差でもありませぬこと、そうして思いましたんは、もし仮に今、タイム・マシーンなんぞがあったりして、縄文人がやってきてみんなの間に紛れ込んでいる、さあ、気付くでせうか、それは難しいことでせうか、もしかしたら縄文人っちゃーイケメンや美人さんだったりもするのかしらん、それで目立って見つかってしまったりとかーあああー妄想が広がりまするなー。)
こんばんは。
東南アジアに起源をもつ人々ではないかと考えられてきたが、父系・母系両方の遺伝情報が入った核DNA解析の結果(三貫地貝塚人骨、船泊遺跡縄文人骨)、東ユーラシアの人々の中では遺伝的に大きく異なる集団であることが判明した。北海道や東北の縄文人は、本州や九州の縄文人とは明らかに異なっており、本州と九州の縄文人は、現代の東アジア人に似ていたとされる。
(な、なんだなんだ、またややこしうなって参りましたぞ、ですがとりあえず次の区切りのところまでー。と思ったんスが、ひとまず本日はここまでー。)
(ぷひぃー。とん、とん。)
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♪じょじょじょーもんー(←オクターブ↑)
(えー、昨日の文章につき、これもまた申し上げたく存じまする、この文章で教えてもらいましたんは、「縄文時代イコール新石器時代」でありますこと、日本列島における新石器時代は縄文に始まる、つまり縄文時代の前までを旧石器時代とする、なるほどそうなんスかーそうなんスねー。)
こんばんは。
縄文人 出典: 『ウィキペディア(Wikipedia)』
概略
縄文人およびその縄文文化は、概ね現在の日本列島全域に分布した。その生活は新石器時代以降である約1万6,500年前の紀元前145世紀から約3,000年前の紀元前10世紀まで続き、縄文時代と呼ばれる。そのため、日本列島に居住し縄文土器を作った新石器時代人を縄文人と見ることが出来る。世界最古級の土器を作り、約5000年前の縄文中期には華麗な装飾をもつ火焔(かえん)土器を創り出すなど独自の文化を築いた。日本列島に居住していた後期旧石器時代の人々が、縄文文化を始めたと推測されている。
(縄文文化は日本列島に土着のひとらが始めたのですね。しかし、そうだとしますと、あの「華麗な装飾をもつ火焔(かえん)土器」を自ら生み出した、自ら創造したあのオリジナリティー、ゆうことになりまするが、ううーむ、だとしましたならば、あまりにもすごすぎますればー、はっ、ははあー。)
(ぷひぃー。とん、とん。)
♪じょーもんじょーもんじょーもんー(←西部劇的。)
縄文人 出典: 『ウィキペディア(Wikipedia)』
縄文人(じょうもんじん)とは、日本の縄文時代(新石器時代)に、特徴ある縄文文化を始め、その生活を1万年以上続けた人々の総称。現在の北海道から沖縄本島にかけて日本列島全域に居住した。この縄文文化は最終氷期の最寒冷期を過ぎた約1万6,000年前から始まり約3,000年前まで続いた。出土人骨の研究も進められている。
縄文人の祖先は、東南アジアで分岐し最終氷期の最盛期である約3万年前の旧石器時代後期に日本列島まで移住していた現生人類の集団と考えられ、最寒冷期を過ぎ温暖化の始まりを契機として日本列島の新石器文化である縄文文化を始めたと推測される。
こんばんは。
(まーんずのっけからたーくさんの情報を教えてくださってますですー。
まーんず「1万年以上特定の文化をはじめとした生活をつづけたひとらのこと」ゆうんが、そうかー一万年以上も暮らしていたんかー、あなたや俺のご先祖さまがかー、と思いました、ありがとうございます。
次に、北海道も沖縄もなのですねと、思えばこの国の島々がユーラシア大陸から分かれたんはいつ頃でしたっけ、そうです、日本海なるもんができましたんは二万年前でしたっけ、三万年前でしたっけ、それとももっと前でしたか、えーと、約三万年前の旧石器時代後期が最終氷期の最盛期でしたよーと、ふむ、先の「ボトルネック」や「Y 染色体 Adam」「ミトコンドリア・イヴ」らとの絡みもまた気になるところですが、別の機会のお楽しみに取っておきまっせうー。
そしてまた、さっきの一万年以上なる期間を、具体的に約1万6,000年前から約3,000年前までとのことで、てーことは、紀元前すなわちイエス誕生の千年前までですかーゆう、んー、他にも、ゴータマ・ブッダやギリシャのアリストテレスやプラトンら偉大な思想家たちが誕生する数百年前、エジプトももちろんむっちゃ繁栄、てなこってスですかなー。)
(ぷひぃー。とん、とん。)
脱線上等よーそろー。
(うふふ、ぐふ、ぐふふ、見つけてしまいましただー。)
こんばんは。
(と申しますのんは、ここで取り上げるのにふさわしい、と申しますか、そんな、「ふさわしい」だなんて偉そうだ、さーせん、ここでぜひ取り上げさせて欲しい、あれこれして楽しみたい、あれやこれやをあなたと考えてみたいのですゆう、ええ、おそらく、長らく俺とお付き合いしていただいているあなたであればおわかりかもしれぬ、おわかりにならずともご納得していただける、うんうん、まあまあそうですな、と、うんうん頷いてくれる、さて問題です、それはなんのことでせう、さてヒントです、「Y染色体ハプログループ」のつづきの中にあります、もちのろんです、さーてさて、さてもさてもー。)
(ゲーム音楽的な、リズミカルな、軽やかで反復的な、しやーす。)
縄文人
(ぷひぃー。とん、とん。)
自転車の輪の空気が季節を教えてくれる
こんばんは。
Y染色体ハプログループ(再掲っス。)出典:『ウィキペディア(Wikipedia)』
Y染色体ハプログループとは、男性で遺伝するY染色体のハプログループ(=ハプロタイプの集団)のことである。
概要
Y染色体の最新共通祖先 (Y-MRCA、非公式にはY 染色体 Adamとして知られている) は、現在生きているすべての人間が父系で子孫を残した最新共通祖先 (MRCA )である。
Y染色体を持つアダムは、およそ 236,000年前にアフリカに住んでいたと推定されている。他のボトルネックを調べると、ほとんどのユーラシア人男性 (アフリカ以外の人口からの男性) は、69,000年前にアフリカに住んでいた男性 ( Haplogroup_CT ) の子孫である。
他の主要なボトルネックは約5万年前と5千年前に発生し、その後、ほとんどのユーラシア人の祖先は、5万年前に生きていた4 人の祖先に遡ることができた。彼らはアフリカ人の子孫だった (E-M168)。
言語学上の語族の分布と相関性が高い(父系言語仮説)が、外見上の人種区分とは違うパターンが少なからずある(これは遺伝子の系統と集団の系統が異なる不完全遺伝子系統仕分けによるものである)。
(はあ、あの、ここに戻るんがふさわしいのかどうか、わかりませぬー済みませぬー。しかーし、改めて読み返してみましても、おんもしろいっスー。)
(ぷひぃー。とん、とん。)
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