しょういち家頁

目はまだしも、鼻と喉。


(うおー、「ピダハン語」もたふたふ最後まで参りましたー、なんですが、この「達成感のまるで無さ。」ゆうんはーなんでですかいのー。)


 こんばんは。


ピダハン語 出典:『ウィキペディア(Wikipedia)』
他の言語に関する知識


(さーせん、読み物としておもしろく、たのしませてもらいました、んが、次に進みとう存じますよろしうさーせん-。)


言語と再帰

古典的には言語の文法について、英語の基本5文型(SV, SVC, SVO, SVOO, SVOC)といったように、有限個の類型に分類するスタイルがあった。

これに対しチョムスキー以降の生成文法の立場では、次のように、再帰が使われるようなかたちで文法を示す。たとえば "Big furious bears ran." というような文のうち、 "big furious bears" という句は全体として名詞句であるが、「名詞句 → 形容詞+名詞句」「名詞句 → 名詞」という2つの規則により生成が再帰的に行われ、「名詞句 → 形容詞 (形容詞 名詞)」となっていることが重要である。

自然言語一般に「その言語において正しい文」というものは、無限にあるように思われる。このような無限の文は前述のようにして、文法に再帰があることで可能になっていると現代の言語学では考える。また、そのように無限に新しく文を考えられることが、創造性などを支えているようにも思われる。

そしてチョムスキーは、ヒトには一般に初めて見聞きした文であっても、それが正しい文か「非文」かを、何らかの文法にもとづいて認識できる生得的な何かがあるという仮説を提示した。→「普遍文法」も参照

以上のような背景があることから、もし「再帰が無い言語がある」とすれば、それは大発見である、というような主張につながるわけである。


(ぷひぃー。とん、とん。)

つきをくらふ。


(く、くく、くもが。ちくせうー。)


 こんばんは。


ピダハン語 出典:『ウィキペディア(Wikipedia)』
サピア=ウォーフの仮説との関係(※つづきっスー。)

ピダハン族は、この文化的ギャップが原因で商売取引でだまされていたので、エヴェレットにごく基本的な数学的能力を付けさせてくれるよう頼み、8ヶ月間に渡ってエヴェレットとともに日々熱心に学んだものの、成果は得られなかった。


(ああ、しかし、ピダハン族のなかでは、数などわからなくともよかったんですよね。他の人たちと関わるようになって、うんぬん、かんぬん。)


ピダハン族は自分たちにはこの種のことは身に付けられないと結論し、勉強をやめた。ピダハン族には、10まで数えたり、「1 + 1」が分かる人は一人もいなかった。

エヴェレットは、彼らが数を数えられない理由に、次のような事項をあげている。
 彼らは数を数えることのない遊動の狩猟採集民であり、それゆえ実践することもない。
 現在を越えて物事を概括的に述べることに対して文化的制約があり、そのことが数を排除する。
 何人かの研究者によれば、数の語彙や数を数えることは言語上の再帰を基礎とするものであり、ピダハン語には再帰がないので、必然的に数えることができない。

換言すればそれはつまり必要性の欠如であり、それが数える能力とそれに対応する語彙の双方の欠如を説明する。エヴェレットは、ピダハン族が頭の中での認識レベルでも数えることができないとは主張しておらず、前述のように現在ではこの文化は失われつつある。


(ふと思ったんスけども、ピダハン族のひとが考える「言語」と、あなたや俺が考える「言語」に対する考え方が、まるっきり違うんじゃーありますまいか。「言語」に期待する役割やら、んー、そもそもの考え方やら求めるもの、そんなんが根本的にちがうんじゃーありますまいかー。)


(ぷひぃー。とん、とん。)

簡単なお話じゃーありませぬー。


(ほわわわー、なんしか「数」と言語の関わりにつきまして、詳しく書いてくださってざーますござーますぶひぶひー。(※←リズム。))


 こんばんは。


ピダハン語 出典:『ウィキペディア(Wikipedia)』
サピア=ウォーフの仮説との関係

サピア=ウォーフの仮説では、ある人が話す言語と、その人の世界の認識の仕方には関係があると考えるが、NHK「ピダハン —謎の言語を操るアマゾンの民」ではピンカーが言語と文化は関係がないと話しているのを紹介している。

ピダハン族の数に関する知識とこの仮説の重大な関連性について、フランクらによる結論によると、ピダハン族は目の前にあるものについては数を大体把握できるが、目の前にあるものを、数を認識してくれるよう頼む前に隠してしまうと、困難となってしまう。

— Frank (2008)
正確な数量を持たない言語であっても、それはピダハン族が(沢山のものを数えた場合に、それと等しい)正確な数を必要とする仕事を的確に行うことができないことを意味するわけではない。このことは、「数を表す言葉が、正確な数量という概念を生む」というウォーフの強い主張に反証する。(中略)

それよりも、大きく正確な基数を表現できる言語は、その話者に対して、それよりかは控えめな影響を与えることをピダハン族のケースは示唆している。これらの諸言語では、話者は、空間・時間・モダリティの変化を飛び越えた正確な基数の情報を記憶・比較することが出来る。(中略)

このようにピダハン族は「1」の概念を(それを表す言葉がないが)理解している。さらに彼らは、ある一揃いものに「1」を足す、または引くことによって、一揃いのものの数量が変化することも理解しているように思われる。この知識の一般性は、数を表す言葉を用いて任意の基数にラベルを貼っていく能力がなければ、難しいにもかかわらず。
— Frank (2008)


(ぷひぃー。とん、とん。)

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