ん。なんスかー。(※ほじ。)
(ああ、やっぱり、なんか、なんだかやっぱりおもしろっス。と、そう思わせるよう、記述してくださっています。ははあーありがたやありがたやー。)
こんばんは。
ピダハン語 出典:『ウィキペディア(Wikipedia)』
語彙
ピダハン語にはポルトガル語を中心とした借用語がわずかながら存在する。「kóópo(コップ)」はポルトガル語「copo」から、「bikagogia(商い)」は「mercadoria(商品)」から借用されている。
親族関係の語彙
エヴェレットによると、ピダハン族の親族体系は今日知られている人類の文化の中では最も単純なものである。baíxi という一語は日本語の「親」に相当するが、ピダハン語では性差で区別する語がないため母親にも父親にも使われる。また、生物学上の兄弟姉妹より離れた親族関係については考慮にない。
数詞と文法上の数
エヴェレットはかつて、「1(hói)」と「2(hoí)」は、ただ声調によって区別されるのみであるとしていたが、その後の論文では、ピダハン語には数の語彙が全く無いとしている。
フランクらの報告には、4人のピダハン語話者に行った二つの実験が記されている。
最初の実験は、10個のバッテリーを一つのテーブルに一つずつ置いてゆき、ピダハン語話者に何個あるか尋ねるというものである。この言語に「1」と「2」に相当する語があるという仮説の通りに、4人の話者はみな一様に、1個のバッテリーには「hói」、2個には「hoí」を使い、それ以上には「hoí」と「たくさん」を混ぜた語を使った。
次の実験は、最初に10個のバッテリーをテーブルに置き、今度は一つずつ減らしてゆくというものであった。バッテリーが6個になった時、ひとりの話者は(「1」であると考えられていた語である)「hói」を使い、バッテリーが3個になると、4人全員が一様に「hói」を使った。
フランクらは、二つの実験における彼らの行動上の差異についての解釈は試みていないが、この二つの語に関しては「『1』のような絶対的な語であるというよりは、『少し(英: few)』『より少し(英: fewer)』というような相対的・比較的な語である可能性の方が遥かに高い」と結論している。文法上では、単数・複数の違いがなく、これは代名詞においてさえも見られない。
この地に学校が開校してからは、ポルトガル語と数学が教えられているため、このようなピダハン族の数概念に関する文化は失われることになった。
(ぷひぃー。とん、とん。)
色も魅力だったりもー。
(どうも重ね重ねもうしわけありませぬ、昨日謹んで訂正いたしましたことが、実はまちごーていなかった、訂正する必要などありませなんだーゆうことが判明しまして、まちごーてなかったことに気付いてぼーぜんといふ、直して後に、直す必要がなかったと気づくといふ、なんともなんどもどはまりーぬ。)
こんばんは。
(まあまあ、とは申せ、そうはありませぬ状況ですんで、もちっとねばって説明させてもらいますと、今回の場合、「ピダハン語」なる、かなり珍しいのではあるまいかーゆう言語についてもっと知りたいという思い、でも、わからぬままわからぬことが増えるばかりんなって、どはまりするかも知れぬ、てかその確率の方が経験上高いのかな、ああ、そんなんわかってますよ、わかってますとも、でもさ、でもでもさ、んだども、んだどもべなー、なーんて迷いが、こうした間違えてもーたと勘違いする状況を生み出したんじゃーあるめーかなー。)
(と言いつつ、本日は昨日の続きでのーて、昨日の文章に関しましての俺なんぞの考えを申し上げたく存じます。あの、疑問文が、どんな言語も「例外なく上昇調の「問うイントネーション」を使用」とありまして、そうなのか、当たり前なのかも知れないですけれども、こうして言われてみるまであんまり考えてみたこともありませなんだーと気付かせてもらい、感謝感謝。そしてまたまったく同様に「激しい喜びの任意の表現は話し手の言語や国籍にかかわらず、概して下降調で発音され、これもまた普遍的である」とありまして、なるほどのーと、そうなんスかーと、ええ、いわば当たり前を「当たり前」と気付かせてもらうんも、大事なことなんかも知れぬーと気付かせてもらう、ありがとうございますー。)
(ぷひぃー。とん、とん。)
これ居茶門之助。はっ、ははあー。
(文句ばかりゆうて申し訳ござーせんー、そうして疑問がいくつも残りつつも、本日はちゃっちゃと進めとう存じますー、えー、なぜだか説明できませぬがーこーゆーわからねーときゃーもうすこしわからねーまま進めてみるゆうんもーたまにゃーいいこともあるんでさーと、ええー経験則とでも申しますかー。)
こんばんは。
言語の起源 出典:『ウィキペディア(Wikipedia)』
コミュニケーション、音声、言語
(※おとといまちげーておりました謹んで訂正しますー。)
(※↑とする間違いを、勘違いを、再訂正いたしますー。)
(※もーちろん続きっスーあざーす。)
ヒトの言語のカギとなる特性は問う能力にあるとも提言されている。(特にボノボやチンパンジーのように) ヒトである調教師と (主に視覚的な形でのコミュニケーションを利用して) 交流するようになり、複雑な質問や要求に正しく応じる能力を示す動物もいたが、彼らでも、そしてもっとも単純な形であっても自ら問いを発することはできなかった。
ヒトの子供は統語構造を使い始める遥か前、彼らの発達段階のうち喃語期に (問うイントネーションを使うだけではあるが) 初めて物を問うことができるようになる。異なる文化に属する赤子はそれぞれの社会環境で母語を習得するが、地球上に存在する言語は例外なく―声調言語であれ、非声調言語であれ、抑揚言語であれ、アクセント言語であれ―一般疑問文には上昇調の「問うイントネーション」を使用する。この事実は問うイントネーションの普遍性の強い証明である。
他に言及しておくべきこととして、激しい喜びの任意の表現は話し手の言語や国籍にかかわらず、概して下降調で発音され、これもまた普遍的であるということがある。
(ぷひぃー。とん、とん。)